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白州町の遺跡 総括
白州町内に於ける遺跡の分布は、以上みたように、ほぼ町内全域にわたっているが、釜無川に向って傾斜する広大な台地平坦部に集中する傾向がある。時期の上からは、縄文時代、平安時代、および中世に関する遺跡が顕著である。縄文時代については、数量に差はあれ、早期から晩期までの土器が採集されているが、やはり中期に関する遺跡が最も多く、前期がこれに次いでいる。この傾向は、八ヶ岳山麓の地域の状況と同じである。平安時代と、これに続く中世の遺跡が多いことは注目すべきである。
古代後半になり、白州町内の開発が急速に進み、その生産性の高まりが、中世社会の形成の一要因となり、多くの中世遺跡を残さしめたと見なされるからである。この中世遺跡の分布には、二つの状況が認められる。一つは、中山砦のある中山を取り巻く位置に集中する傾向である。地名も、屋敷平、古御所、板古屋、陣ケ原、など直接戦国時代
に由来する可能性の高いものが多く残されている。発掘調査により、同時性が証明されなければならないが、中山砦という山城を中心にして、その裾部に発達するという中世村落の一つの形態が示唆されているようにも思える。
一方、横手、白須から上教来石地区にかけて、現在の国道20号が走る地域より一段高い台地上に、この時代の遺跡が並ぶ傾向が認められる。この要因として、古代後半から中世戦国時代に至る交通路とそれに関連する施設の問題も検討されねばならないであろう。
弥生時代の遺物は、押野で一点、白州小学校保管品内に一点の計二点しか認められていないが、これらは、中期の条痕文土器にあたるものであり、少なくとも、弥生文化が白州町にも波及していたことになり、貴重な資料と言えよう。
古墳時代の遺跡は、余り明確ではないが、鳥原の大久保遺跡、陣ケ原遺跡から、これに摂する土器が採集されており、可能性は認められる。また、古墳については、鳥原の柏木に一基あったとされているが、今は全く消滅し、その所在さえも確かではない。いずれにせよ、白州町における考古学上の調査、研究は緒についたばかりである。この地に生きた人々の埋もれた生活を掘り起し、歴史の流れの中に正しく位置づける仕事は、徐々にではあれ、確実に究めねばならない課題でもある。
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